交差点から車で15分。
ちょっと大きな公園の駐車場に
2つの車を並べて置いて。
目の前を歩く私たちの影は少しだけ切なそうに。
何だか悲しそうに。
それでいて幸せそうに。揺れる。
空が、急ぎ足でオレンジに染まっていく。
すきなのに、さよなら
「大翔(ひろと)の手、あったかい。」
軽く繋いだ手はいつもと同じ、少し高めの体温。
男の人ってどうして温かいのかな。
そんなことを考えながら見上げると、
困ったような笑顔を浮かべる大翔の瞳には
同じように困り顔の私が映っていた。
「楓子(ふうこ)の手が冷たすぎるんだよ。」
確かに。
私は低体温だ。
平均体温は35度だし。
36度半ばを過ぎただけでクラクラしたりもするし。
一度、34度台を出して驚いたこともある。
だけど。
自分で言うのも変だけど。
私はこの少し冷たい体温が。
少し、気に入っている。
大翔の熱い掌と、私のぬるい温度が
混ざって混ざって溶け合っていく。
この感じがとても好き。
「楓子、ここ立って。」
「もうさっきから立ってますけど?」
「いいから。じっとしてて。」
大翔に言われるがままに私は立ち止まる。
手を繋いだままの私たちだから。
そのまま大翔も立ち止まるのは必然的なわけで。
だけど決して必然ではない、向き合った姿勢で見つめ合う2人の
ほんの数歩分の隙間を、涼しい空気が通り抜けて行った。
「……………」
「……………」
重い沈黙。
軽い沈黙。
大翔はどちらに感じているんだろう?
少なくとも今の私にとって
この沈黙は決して軽くなく、
かと言って重いわけでもなく。
何だか中途半端。
それは
自分の気持ちがふわふわ浮ついているせい?
それとも
ただ単に、私が無神経だからかな?
「大翔」
「うん?」
名前を声に乗せる。
大翔 ヒロト ひろと
きっと何千・何万と口にした、呼び慣れた単語のはずなのに。
たった1回の言葉に胸の奥がギュッと縮まって。
私は思わずこくりと息を飲み込んだ。
流れる風があっという間に雲を連れ去る。
ソフトクリームの形をした白い固形物は既に行方不明。
このままここでずぅーっと空を見ていたら。
またいつかソフトクリームのあの雲は
この場所に戻ってくるのかな?
何時間も何日も何週間も何ヶ月も待って。待って。待って。
ようやく再会を果たしたとき。
その雲を指さしながら隣を見れば、もうそこに大翔はいない。
そんな別れが待っていればいいのに。
大翔は静かに離れていく。
私は笑顔で空を見上げたままで。
繋がれていた手が冷たいことにも気づかないで。
ソフトクリームの雲に出会えることをただ願っている。
空を仰ぐ私を視界に映した大翔。
大翔の最後の記憶には私の笑顔が残るの。
そんな別れが待っていればいいのに。
「そんなうまい話、あるわけないか。」
「なに?何の話?」
「ううん。なんでもない。」
私の突発的な言葉でさえも
一生懸命に意味を汲み取ろうとするあなたは優しいひと。
そんなあなたの優しさは、ひどく私を傷つけた。
世の中、うまくいかないね。
優しさに傷ついてしまうなんてさ。
本当 ごめんね。
「俺たち、幸せだったよな。」
ぽつりと呟いた大翔の優しさ。
ほらね、我が儘な私のココロは
またちょっとだけ、痛みに軋んでしまうよ。
優しいだけが愛情じゃないと、私は思う。
けれど、それを相手に伝えるのは
とても難しい。
私だって強がりだけの愛情じゃないはずなのに。
どうしても、優しい言葉なんて出てこなかった。
怒って欲しいときもある。
甘えて欲しいと言われた。
強引に抱き締めて欲しいのに。
弱い自分なんて見せられなかった。
まるでボタンを掛け違うように。
何だか思うように愛し合えなかった私たち。
結局、求めることばかりで与えることなんて出来なかった。
だから
「このまま10秒、目ぇ瞑ってて。」
そう言う大翔の大きな掌が私の手を強く握りしめる。
だけどそれは一瞬で。
すぐに緩められた指先は、今にもほどけてしまいそう。
まるで2人のココロみたいに。
「10秒ね。…分かった。」
分かっていた。
このまま目を瞑ったら、
もう二度と大翔の姿を見ることなんて出来ない。
分かっていた。
分かって いたんだけど …
それでも頷いたのは、私はとても感謝していたから。
出会ってから今日までの数え切れないほどの日々、
私はとても幸せだった。
あなたに守られて、あなたに愛されて、
私はとても幸せだった。
強がりな性格が邪魔をするせいで、
それを言葉にしたことはきっと1度もないから。
だから。
あなたの願いごと、最後くらい叶えてあげたいって思うんだ。
「俺、後悔してないよ。」
「…そういうこと、言わなくっていいってば。」
「何でだよ。最後くらいいいじゃんか。」
「やだ。だって …… っ」
力強く引き寄せられた腕。
繋いだ手とは逆の手が私の目元を覆い、視界が黒で遮断される。
「うるさいから、ちょっと黙ってろ。」
乱暴な言葉を紡ぐ唇が、優しく私に舞い降りる。
よく目を開けたままキスをする私に大翔は文句を言っていたよね。
ほんと、謝るよ。ごめんね。謝るから。
最後くらい、その顔を見てキスさせてくれてもよかったのに。
唇が離れ、身体が離れ、手が離れ。
最後に目元を覆う掌だけが二人を繋ぐ温もり。
何もないふたりだった。
プレゼントも豪華なディナーも約束された未来、さえも。
愛の言葉すらうまく言えなくて。
抱き締めることすら、うまく出来なくて。
いつも不確かな気持ちの上にだけ存在する、そんなふたりだった。
もし最後の瞬間が訪れたなら、私は大翔に何を言うんだろう。
いつも、眠る前にベットの上で何度も何度も考えたこと。
すき
だいすき
あいしてる
なんだか、どれも違っている気がした。
なんだか、どれも薄っぺらい気がした。
結局、私の中に巣くっている大翔への想いを言葉にすることなんて出来なかった。
…最後まで。
そして最後の温もりも私から離れ、
あなたの足音が遠ざかっていくのを耳に感じる。
グリーンのスニーカーが地面を踏んでいく。
ざくっ、ざくっ、ざくっ。
その拍子に宙へ投げ出された砂や砂利の破片が
まるで身体に突き刺さるようで。
私は胸の痛みを懸命に堪え、
その痛みを掻き消すように声を張り上げたんだ。
「いーち」
人影もまばらな静まりかえった公園。
悲しいくらいに私の声が響いている。
風に乗り踊るそれは私の長い髪。
不器用な大翔は頭を撫でるのがとても下手くそだった。
ワシワシワシってまるで犬を撫でるみたいに。
よくそれで私は頬を膨らませたけれど。
ほんとは。
ほんとはね。
世界一不器用で愛溢れる心地よさに
何よりも安らぎを感じていた。
「にーぃ」
ゴツくて不格好な大翔の掌。
付き合いたての頃はいつも緊張して
手を繋ぐたびに汗まみれになっていたよね。
汗をかいては苦笑して。
苦笑しながらジーンズの生地で汗をふいて。
そうして、また
照れくさそうに手を差し出す、笑顔。
ねぇ。忘れないよ。
「さーん」
出会った時の私に対する第一印象は最悪だったと言っていた。
当時は茶髪にピアス姿だった私だから、
そういった類が苦手な大翔にとっては当然だと思う。
けれど。だからこそ。
ここまで好きになれたのかもしれないと笑う大翔が
とっても頼もしく思えたってのは今でもナイショなわけで。
「しーぃ」
2人が付き合うようになってから、
私はあなたの趣味である映画をよく観るようになったよね。
洋画、邦画、アクション、サスペンス、そのたびに映画館に足を運んだ。
中でも1つの映画が忘れられない。
大翔は覚えているかな?
邦画のラブストーリー。
興味がないと渋る大翔を無理矢理連れてきたのに、
気づけば隣で涙している横顔。
帰りにこっそり主題歌を着メロに設定する姿は何だかとても愛おしかったなんて、
もちろん言えないんだけど。
あの映画の主人公のように、
生涯をかけて大翔を愛すると確かに誓った日から
どれくらいの月日が流れたんだろう。
「ごーぉ」
はじめてのキスもこの公園で。
私が目を閉じて待っていたまでは良かったんだけど。
何を思ったか、大翔まで目を閉じてしまったんだから大失敗。
勢いよくぶつかってきた唇は、思い切り左にズレた位置にコンニチワ。
真っ赤な顔をして再び挑んだ2回目のキス。
なんだか、幸せの味がした。
「ろーく」
ケンカも沢山したね。
原因は私だったり大翔だったり。
だけど頑固で意地っぱりな私はなかなか「ごめん」の一言が言えなくて。
最初に謝るのは、いつも大翔だった。
「なーな」
ねぇ、どうして私たちうまくいかなかったんだろう。
こんなに好きなのに。
こんなに大好きなのに。
やっぱりちゃんと言葉にしなくちゃダメだったんだよね。
ちゃんと気づいていたはずだったのに …。
私はいつも甘えていた。
大翔の大きな愛に、甘えていたんだと思う。
私の我が儘に飽き飽きしたこともあったでしょう?
私の意地に付き合いきれなくなるときもあったでしょう?
「はーち」
私たちは、私と大翔は
明日から他人になる。
「きゅ… 」
だからその前に私が言わなくちゃいけないこと。
それは
「…っ、ごめんね……」
私は約束を破りました。
どうしても耐えることが出来なかった。
10秒になるほんの少しだけ早く、閉ざされた視界の鍵を解いてしまった。
私が最後に大翔に言いたかったこと。
それは 好き でも 大好き でも 愛してる でも ありがとう でもなくって…。
だいすき、だよ
目を開けたとき。
決して声には出さず、けれども懸命に口を動かし
想いを伝える大翔がそこには居た。
あの映画を観た時のように、目にいっぱいの涙を溜めて…。
立ちつくす私に微笑んだ大翔が、
いつものように軽く頬を膨らまし拗ねたような顔を作る。
それは約束を破った私を怒っているようで。
まるでふざけているようで。
けれどどこか余裕がなくて。
あふれ出す悲しみを必死に堪えているのだと、気づいた。
車に乗り込む大翔。
私専用だった助手席のクッションの青は、大翔の大好きな空の色。
いつも金属音を響かせていた鍵をひねり、
エンジンを吹き込まれた車が軽快なリズムを刻み出す。
やがてブレーキランプの赤が姿を消し、
ノロノロと地面を転がり始める小さな小さな大翔の車。
どうすることも出来ない。
二人で同時にそれぞれの車に乗り込み、同時に逆方向へ走りだそうね。
本当は、そう約束していた。
どちらかが見送り、見送られるという形は良くないからと。
約束していた。
なのに、
あなたは1人行ってしまった。
きっと大翔は分かっていたんだね。
私が約束なんて守れるわけがないことに。
時間が経てば経つほど離れにくくなる。
だからこそ、自らが見送られることを選んだの?
だとしたら、どうしてあんな言葉残したんだろう。
10秒待てなかった私が悪いのか。
最後の意地悪をした大翔が悪いのか。
少なくとも最後の最後でさえ謝ることしか出来なかった私に、
大翔を責める権利なんてないことは明らかで。
角を曲がる瞬間、小さな車が出したサインはウィンカーではなくハザート。
左右のランプがチカチカと2,3回点灯しているあれは。
『ありがとう』の、サイン。
涙がとまらない。
もうあのエンジン音さえ聞こえない。
あなたはどんな気持ちでいるのだろう。
私を乗せた助手席の隣で。
私と聞いた音楽をかけて。
私との思い出を沢山乗せたまま。
どんな気持ちでハンドルを握っているのだろう。
出会ってからの時間が繰り返し繰り返し頭の中で流れていく。
これほどまで誰かと喧嘩をしたのは初めてだった。
これほどまで我が儘になったのは初めてだった。
これほどまで甘えたのは初めてだった。
これほどまで涙を流したのは初めてだった。
これほどまで傷つけ合ったのは初めてだった。
これほどまで、愛し愛されたのは初めてだった…………。
愛してる…。
ねぇ、大翔。
この先ずっとずっと時間が流れて。
この頬を伝う涙と、胸を刺す痛みもいつか無くなる日がきたら。
私にも、そして大翔にも
いずれ大切に想うひとが現れたりするのかな。
声にならずに消えたあなたの最後の言葉は
いずれ違う誰かのために存在するようになるのかな。
私は、私たちは
いずれこの痛みを乗り越える日が来る。
どんなに拒んでも。またどんなに望んでも。
それは避けられない現実。
でも私は忘れないよ。
こんなに悲しくて、こんなに幸せだったこと。
…大翔のこと。
すきなのに、さよなら。
すきだけど、さよなら。
すきだから、さよなら。
…さよなら。
涙を通り過ぎていく少し冷たくなった風。
そのたびに連れさらわれる体温に、私は両手で身体を抱き締める。
空はいつの間にか、オレンジ色のペンキで塗りつぶされていた。
end。。。
2005/9/17