「どがん所連れてってくるっと?」
まん丸の瞳を俺に向けながら、
彼女はゆっくり微笑んだ。
ある、夏の暑い日。
向日葵の名前
普通修学旅行というものは、
早くて6月、普通は11月前後に行くものだ。
6月に実施するのはだいたい大事な受験を控えた進学校とかで。
そのへん暢気な学校は11月すぎに旅行だとか、文化祭だとか、
オマツリゴトを好んで用意していたりする。
だいたい修学旅行というものは
普通高2のときに行くものだ。
どんな暢気な学校だって、
高3の夏つったら模擬試験やら補習やらがてんこ盛りなはずで。
たまの息抜きに地元の夏祭りに行くくらいが妥当なはずなんだ。
なのに
鈴木賢治 18歳 高校三年
俺は今、長崎にいる。
どんな例外を上げたって、
8月しかも夏休み真っ只中に旅行を実施するなんて
ウチの馬鹿校くらいだろう?
貴重な夏休みを5日間も学校行事に費やすなんて、
俺もたいがいアホだ。
しかも、俺の友達は揃いも揃って旅行をバックレやがった。
つい2,3日前まで小遣いはいくらだの、服装は何だの浮かれてたはずなんだ。
それが当日、眠い目を擦り擦り来てみれば、
俺を迎え入れたのはムカツク教師と
ろくに挨拶もしねぇクライスメイトばかりで。
慌てて電話してみれば、棒読みのアナウンスが耳を通過していくだけ。
ふざけんなよッ!!
留守電にメッセージを吹き込んで、
やってられっかとばかりに身をひるがえした俺を待つクソ教師のムサイ胸板。
捨て身の抵抗も虚しく、見事にキマッた右フックが俺の意識を持ち去り、
気が付いた時にはココにいたわけで。
そして隣にはコノ、オンナ。
「賢治くん?どがんしたと?」
彼女はここ、長崎で出会った女だ。
出会ったというか、正確には俺がナンパした。
事の発端は今から10分ほど前。
友達のいない修学旅行ほどつまらんものはない。
特に自由時間なんて最悪だ。
ろくに計画も立てていなかったし、行きたい所も別にない俺は
あっという間に単なる暇人に成り下がってしまった。
こんな時彼女のひとりでもいれば違うのだろうが。
何せウチは男子校というやつで。
仮に彼女がいたとしても、現時点で暇なことに変わりはないだろう。
路地に設置されたベンチに腰掛けて、ボーッと空を見上げる。
長崎の空はとても綺麗だ。
空は青いという言葉がそのまま当てはまる。
東京の薄汚れた灰色とは大違いで、
どこまでも深く深く広がっていく青が、何だか海みたいだった。
ふと、目の前を通りかかった1人の女。
俺の目に映っていた青色が瞬時に黒へと変化する。
それは女の髪の色。
真っ直ぐと伸びた黒髪がサラサラと風になびいて、
女の華奢な背中で揺れていた。
思わず声をかけたのは本能だったのか意思だったのか。
ただ、気が付いた時には彼女の真っ直ぐな瞳に
自らの視線を絡ませた後だった。
黒髪に映える白い肌、小さな唇、濡れた瞳。
ドクンと高鳴った鼓動はまさしく運命の出会い!?
なんて、ガラにもねぇこと考えた俺がやっぱりアホだったのだ。
「お兄さんどっから来たとばい?都会のもんやろう?」
…………………はい?
可憐な外見からは想像すら出来ない、
とんでもない発言を耳にした数秒後。
俺は気づいたのだった。
そう、ここは長崎。
まさしくソレは長崎弁というやつだ。
時すでに遅し。
後悔先に立たず。
知らずに身に付いていたらしい知識が
こんな時ばかり脳内を瞬時に駆け抜けていく。
そう、後悔したところで全てが遅かったのだ。
オンナは素早く俺の腕に自らの手を絡めると
綺麗に手入れの行き届いた黒髪を右手でかき上げ、微笑んだ。
「どがん所連れてってくるっと?」
そうして俺とオンナは今に至る。
「賢治くん?何ボーッとしとっと?」
「……………あ、すいません。ちょっと暑くて。」
黙り込む俺を心配するように、隣のオンナが俺を覗き込む。
相変わらず絡めたままの腕といい、
随分前から友達だったような顔をして俺の名前を呼ぶことといい、
極端な人なつこさはこの土地柄のものなのだろうか。
それとも単なる性格か?
少なくとも、コンクリートジャングルで生まれ育った俺には
そのオープンな性格は微塵もインストールされていないらしい。
さっきから口をついて離れないこの敬語はどうやら警戒心の現れのようだ。
この状況を見れば分かる通り、俺は修学旅行のことについて何も計画していない。
計画どころかマトモに調べてもいない。
長崎つったらカステラが有名だとか、それくらいしか知らない俺にとって
長崎の女の子が標準語とかけ離れた話し方をするなんて
全くの想定外としか言いようのないわけで。
何が困るってそんなの簡単かつ重要なコレしかないだろう。
「ほんと?なんか冷たいもん食ぶっか?」
「はい?」
コ イ ツ の 言 葉 が 分 か ら な い 。
「だけん、冷たいもん。暑いんやろう?」
「あ、はい。暑い…っす。」
「冷たいもの」と「暑い」という単語から
思い当たる例文を頭の引き出しから取り出す。
おおよそ「何か冷たいものが飲みたいなー」とかそんなもんだろう。
引っ張り出した例文を元に俺は自分の意思を彼女に伝える。
それがもし見当違いだったなら
「はい?」とか「え?」とか適当に相づちを打っては新たなヒントを得るのだ。
彼女と出会ってからずっと、こんな調子。
あー、ほんと俺ってアホだ。
「賢治くんは甘いもん好いとる?」
石垣に囲まれた路地を並んで歩きながら、
彼女は相変わらずの笑顔で鼻歌混じりに俺を見上げる。
えーっと、今のは「賢治くんは甘いもの好き?」かな。
これくらいなら俺にでも理解出来そうだ。
「あー結構好きな方かな。君は?」
「文佳!」
「…はい?」
ようやく俺の彼女に対する警戒心もとれてきて、
普通に言葉を返すことが出来るようになったころ。
ふいに問いかけた俺の言葉にオンナが突然足を止めた。
驚いて振り返れば口を尖らせ恨めしそうに俺を睨み付けている。
…今度は一体何だよ。
「私の名前、"キミ”じゃなか。文佳(ふみか)ばい。」
「あー…」
どうやら彼女は、自分の名前を呼ばれなかったことに対して
ヘソを曲げていたらしい。
さてどうしたもんか。
ナンパはするくせに、女の名前を呼ぶことにあまり慣れてはいない俺。
彼女に対してもそれは例外ではなく。
出会って間もない女の名前を気安く呼ぶのもどうかと思う。
かと言って、このまま名前を呼ばなければここを一歩も動きそうもない彼女を
放っておくわけにもいかず…。
「………文佳、ちゃん?」
向日葵。
大きな太陽に向って一心に背伸びをして、
その日差しを精一杯全身に受け止める。
その花は必ず太陽の方を向いているのだそうだ。
青い空に映える黄色い花。
「やっとこさ聞けた!こいからも呼んでくれんね?」
なんともストレートというか、単純というか。
俺が名前を呼んだ途端に満面の笑みを咲かせた彼女を見て、
何となくそんなものが頭をよぎった。
そういえば、きちんと名前を呼ばないことを
指摘されたのは初めてかもしれない。
いつだって「キミ」とか「オマエ」とか「アイツ」で会話の成立してしまう、
俺は今までそんな環境で生きてきた。
自分の名前を呼んで欲しい。
こいつの声で俺の名前が聞きたい。
そんな風に思ったことが、これまで一度でもあっただろうか。
「文佳ちゃんってさ、自分の名前…すき?」
「もちろん!超ぉー好いとるよ!」
「………………」
まったく夏ってヤツは。
本当にマジで最高に厄介だ。
これまで聞き慣れなくて耳障りでウンザリしていた彼女の方言が、
何だか一瞬だけ。
ほんと、一瞬だけ。
………可愛く思えちまったじゃねぇかよ。
「…ぷっ、はは!そっか、好いとるんだ。ははっ」
突然笑い出した俺を彼女はポカンと口を半開きにして見ている。
そう。まるで沢山の群れの中で、一本だけ太陽から顔を背けている
そんな天の邪鬼な向日葵を見付けたかのように。
「賢治くん?なんが面白か?」
「や。何でも、ないんだ。ごめ…あははっ」
「もぉー賢治くん!おそえてよっ」
相変わらず予定も計画もない俺は
残りの4日間、やっぱり今日のように暇人なわけで。
だけど
石垣に囲まれた街。
カステラの有名な街。
空が青くどこまでも広がる、そんな街。
俺にとっての長崎はそれだけできっと十分なんだ。
君がいる街。
たった、それだけで…。
「ところで…さ」
「ん?」
「文佳ちゃん、明日からの4日間…ひま?」
こうして、俺と彼女の短い夏が過ぎていく。
end。。。
【長崎弁辞典】
「どがん所連れてってくるっと?」 → 「どんな所連れてってくれるの?」
「賢治くん?どがんしたと?」 → 「賢治くん?どうしたの?」
「お兄さんどっから来たとばい?都会のもんやろう?」
→ 「お兄さんどこから来たの?都会の人でしょう?」
「賢治くん?何ボーッとしとっと?」 → 「賢治くん?何ボーッとしてるの?」
「ほんと?なんか冷たいもん食ぶっか?」
→ 「本当?何か冷たいもの食べる?」
「だけん、冷たいもん。暑いんやろう?」 → 「だから、冷たいもの。暑いんでしょう?」
「賢治くんは甘いもん好いとる?」 → 「賢治くんは甘いもの好き?」
「私の名前、"キミ”じゃなか。文佳(ふみか)ばい。」
→ 「私の名前は"キミ”じゃない。文佳だよ。」
「やっとこさ聞けた!こいからも呼んでくれんね?」
→ 「やっと聞けた!これからも呼んでくれるよね?」
「もちろん!超ぉー好いとるよ!」 → 「もちろん!大好きだよ!」
「賢治くん?なんが面白か?」 → 「賢治くん?何が面白いの?」
「もぉー賢治くん!おそえてよっ」 → 「もぉー賢治くん!教えてよっ」
2005/07/30