自分に自信なんて持てるはずがない。
こんな私大嫌いだよ。

どんな時も笑ってさえいればいいんでしょう?
そしたら嫌わないでくれるよね?
だったら私は大丈夫。
何だって全然平気だよ。

たとえ、あなたの瞳に映るのが私じゃなかったとしても………。




「待てよ…春花」




痛みを忘れた心の氷が溶けたとき、

そこに待つのはやっぱり同じ痛みなの…?






−5−LateFall In 1999 





肩で息をする春花の腕をしっかりと掴む力強い手。
全力疾走したせいで膝がガクガクと震えている。

振り払おうにも身体に力が入らず、
その手にむしろ支えてもらうような形で顔を上げた春花の瞳は
自らを引き留めた人物をとらえるなり
見る見る驚きの色に染まっていった。




「なんで…玲がいるの?」




そこには、玲がいた。



明かりを失った校舎はやけに静かで妙な威厳を放っている。
今日は部活が休みなためか、
そこに残る生徒は春花たちを含めても数人ほどで。
いつもは部活に汗を流す生徒で賑わう校庭も
ざわざわと風が木々を揺らしているだけ。

数時間前秋穂と共に教室を後にしていったはずの
玲が何故未だにこんな所にいるのか。
そして何故自分を追いかけ引き留めているのか。
それが春花には不思議でならない。


「お前こそどしたんだよ?水夏と残ってたんじゃねぇの?」

「……っ」


水夏。

その響きに先ほどの敦史の言葉が蘇る。
途端に込み上げる想いが視界を鈍らせて
今にも溢れそうになる涙を春花は必死に堪える。


「そうなんだけどね。水夏がまだ遅くなるっていうから先に帰ってきたの。」


無理矢理に作った笑顔はちゃんと出来ていただろうか。
引きつる口元を懸命に形作りながら、
春花は出来る限り平然を装って答えた。


「そうなんだ」

「うん。そうなの。」

「じゃぁ…お前は何で泣いてんだよ?」

「…っ」


気づいたとき、当てもなく流れる最初の雫が
春花の頬を静かにつたい落ちていた。
そんな春花を切なそうに見つめる玲の瞳。
いつの間にか腕を掴んでいたはずの手は
春花の頭に移動し、まるで大丈夫だと言い聞かせるように
ゆっくりゆっくりと髪を撫でる。


「お前…マジ嘘下手すぎなんだよ」

「…っ……れいっ」


その温かさに、その優しさに、心の氷は溶かされて
その欠片が涙と一緒に溢れ出ていく。

春花は声を上げて泣いた。
何度もしゃくり上げながら、肩を震わせて泣いた。
常に人目を気にしながら生きてきた春花にとって
これほどまでに涙を流したのは本当に久しぶりのことだった。
玲はいつまでも春花の側で何も言わずに髪を撫でていた…。







*****






どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
当てもなく通り過ぎていくだけの風の音を
随分と長く聞いていたような気がする。

夕暮れ色に染まっていたはずの空を
闇のカーテンが包んで。
キラキラと瞬く光は、1番星の姿を見失わせてしまうほど
既に両手だけでは数え切れない。



「…なんか、ごめんね。
 こんな遅くまで付き合わせて。」


目尻に残った最後の雫を片手で拭い取ると
春花は隣に座る玲を気遣うように微笑んでみせた。

溢れる涙に身を任せ、感情のままに心を揺らした。
そんな春花に何も言わず、ただ隣にいてくれた玲。
細い喉が時折漏らす嗚咽を気にしていないとでも言うように
流行りの曲の鼻歌を軽く口ずさんで。
それでも飽きることなく自分の時間をほんの少し、春花に分けてくれた玲。

そんな玲に春花は言い表せぬほどの感謝を抱いていた。
『ありがとう』たった5文字ではとても伝えきれない。
これまで1人で泣くことでしか感情の出口を作れずにいた春花。
誰かの前で泣くなんて、自分の弱さをさらす以外何ものでもないと思っていた。
涙を流すのは、抱えきれない荷物を肩から降ろす作業でしかないと。

けれど、それは違っていた。

確かに涙を流すということ自体は
1人で泣いてもそうでなくても変わらないこと。
それでも、やがて最後の雫が乾いたときに
隣に誰かがいてくれるということ。
それだけで心の奥が綺麗な水で満たされていくような、そんな気がする。


「泣いたら何だか楽になったよ。」


もちろん、心を陰らす暗闇が全て晴れたわけではない。
これから家に帰り、また1人になれば
どうしようもない痛みが再び襲ってくるのだろう。
だけれど、それでも春花はいいと思った。
今この瞬間気持ちが軽くなったのは確かに本当のことで。
先に待ち受けている痛みに今から怯えるのは
ずっと隣にいてくれた玲に対して何だか申し訳ないような気がしたのだ。


先のことなんて今はどうでもいい。

この瞬間の気持ちを大切にしたい。



「ほんとかよ。まだしんどそうな顔してっけど?」

「うるさいな。元からこんな顔なんです。」

「ははっ」


茶化すように言った玲の言葉を春花は笑顔で受け取る。
その瞳はほんの少しだけ、まだ薄く濡れていた。


「だいぶ遅くなっちゃったね。玲の親心配してんじゃない?」

「ばーか!そんな歳じゃねぇよ。」

「まだ中学生じゃん。十分コドモでしょ。」

「るせ。」


今日三人目の教師が仕事を終えて車に乗り込み
校舎を後にしていく。
ブレーキランプの赤い光がやけに目について眩しい。

敦史や水夏は未だ姿を現さない。
自分が抜けたせいで、大量に残った仕事を懸命に片づけているのだろう。
小さな嫉妬と大きな罪悪感が胸に込み上げ、
春花は再び涙がぶり返さないようキツク目を閉じた。



「いいのかよ。」

「…え?」


ふと、それまで穏やかに笑っていた玲が声色を低くする。
その瞳は目が離せないほど真剣の色を含んでいた。

冬に近づく季節の風が二人の間を駆け抜ける。
真っ直ぐな玲の視線を受けながら、
少しずつ速くなっていく鼓動を春花は耳の奥で聞いていた。


「いいって…何が?」

「敦史だよ。このまま帰って本当に良いのか?」

「………」


そう問われれば、答えなど決まっている。良いわけない。
身勝手な嫉妬で逃げ出した自分を敦史は不審に思ったはず。
この想いに気づかれてしまったかもしれない。
一旦引き受けた仕事をも投げだし、結果として敦史に押しつけてしまった。


「俺が行ってこよっか?別にまだ時間あるし。」


教室を飛び出した時はショックな自分の気持ちだけが優先して
何も考えられなかったけれど、今となっては話は別。
謝りたい。
敦史の心が自分に向いていないことなど最初から分かっていたのだから。
望むのはその心を手に入れることではないのだから。
望むのは…1つだけ。


お願いだから、嫌いにならないで。


水夏のおまけとしてでもいい。
その笑顔を近くで見つめていたい。
ただの気まぐれだっていい。
時折その瞳に一瞬でもいいから自分の姿を映してほしい。
小さな願いはとても図々しいもの。
それでも些細な希望を抱くことを許してほしい。



だけど



「大丈夫。今度ちゃんと自分で言うから。」


これ以上玲に迷惑をかけるようなことは出来なかった。
これ以上玲の優しさに甘えてはいけないと思った。
これ以上は、本当に5文字で表現出来なくなってしまう。
その気持ちだけで春花には十分であった。


「そっか、ならいいけど。
 でももし何かあったらちゃんと俺に言えよ?」


見たこともないほど真っ直ぐで優しさを含んだ瞳。
どうしてだろう。
胸の奥がざわざわと音を立てる。
それでもその小さな音は、
流れる風の歌声に気を取られる春花の耳まで届くことはなかった。


「玲って意外と優しいんだね。知らなかったよー。」


同時に、一瞬玲の瞳が動揺の色に揺らいだことも。
涙でかすむ春花の視界に映ることはない。


「俺なら…春花のことは絶対裏切らない。」

「え?」

「友達だもんな。当たり前か。」


『友達』
時に揺るぎなく、時に曖昧な意味を濁すその言葉を
この時どんな想いで玲が口にしたのか。
それは今となっては誰にも分からないこと。

パタパタと遠くで上履きが廊下を弾く音が響いていた。
静まりかえった校舎にはその有り触れた音でさえ
物珍しい来客でも訪れたようにどこか浮いた印象を受ける。


「さて…と、帰るか。
 オコチャマの俺を親が心配してっかもだしな?」


足下に転がった石を蹴飛ばしながら、
玲がくるりと身をひるがえし坂道を下っていく。
サラサラの黒髪が風になびくたび、その黒が闇に溶けていくようだった。


「玲っ!」


背中に投げた声をキャッチして、振り返る横顔。
そのままの姿勢で器用に坂道を下る玲。
無言の表情は確かに春花の言葉を待っているのに。
少しずつ遠ざかる姿に、何だか無性に追いかけたいような、
そんな衝動に春花の小さな心は動揺を隠せない。


『友達』
時に揺るぎなく、時に曖昧な意味を濁すその言葉を
この時どんな想いで自分が受け止めていたのか。
それは今となっては春花にも分からないこと。

それでも言いたかった。
今だけの気持ちでない、今までの分とこれからの分を込めて。
たった、一言に…。


「あのね」

「なんだよ。」

「色々…さ」

「何?聞こえねー」

「ありが……」



もっと早く気づいていればよかったのだ。

一度言い損ねた言葉は、もう二度と戻ってこないということに…。




「玲くんっ!」




パタパタと響いていたはずの音と、
春花が言いかけた言葉は、
一瞬の声に空へと散っていく。

春花が後ろを振り返る瞬間、
ほんの一瞬、玲の顔が視界の隅に映った。
その瞳はどこか悲しそうに気まずそうに先ほどの光を失い陰っていた。


「秋…穂?」


器用に耳辺りで結んだ髪を揺らして。
細いその肩で精一杯息をしながら。
秋穂の大きな瞳は春花を通り越し真っ直ぐと玲を見つめている。
頬にうっすらと残る跡。
涙の跡だった。


それからのことはよく覚えていない。

木々を賑わす風だったのか、
未だ校舎に残る生徒の声だったのか、
自分の鼓動だったのか。

なんだか色んなものが耳につく中で、
やけにクリアな秋穂の言葉が空気を貫いて。



「玲くんは…春花ちゃんが好きなの?」



涙に濡れる頬を月明かりに照らされながら、
それでも秋穂の心は真っ直ぐ玲が好きだと言っていた。


『ありがとう』
この言葉の次に続く気持ちに、
この時はまだ誰も気づけずにいたように思う。

何かが変わる…小さな予感に胸を騒がせて…。




 to be continued。。。




2005/5/29