穏やかな春の陽気に誘われて、
日に日にその色は鮮やかに染まっていく。

見上げた空はどこまでも広く、
背景としては申し分ないくらいで。
青とピンクのコントラストは悲しいくらいに綺麗だ。


太く大きな幹に手をそっと添える。
ザラザラとした久しぶりの感触はとても懐かしく、
置き忘れた遠い日の記憶が少しずつ蘇ってくるような気がした。



「春花?」



突然背中に投げかけられた声に振り向くと、
肩下まで伸ばした髪がふわりと踊る。
視線の先に現れた来客に
春花は懐かしさだけでは表現しきれない感情を覚えた。



「玲…」



柔らかな風に乗って舞う花びらが
2人の距離を埋めていく…。






−1−Spring In 1999




冬の終わりを告げる風が春の匂いを運んでくる。
窓から降り注ぐ日差しはとても温かい。
どこかワクワクするようなそんな気持ちと一緒に
何故か切ない想いが込み上げてきたりして。
だから春って不思議だ。

ねぇ、覚えてる?
中学二年の春。
突然耳に届いたその声が、すべての始まりだったよね…。





「俺さーお前の好きなやつ知ってんだぜ」

「はぁ?」

「だから、お前の好きなやつ知ってるっつってんの」

「な、何?いきなり…」


掃除用のモップを持って、1人廊下をブラブラしていると、
突然現れた玲(れい)の言葉に春花(はるか)は戸惑いを隠せなかった。

授業も終わり、部活が始まるまでの僅かな清掃の時間。
春花のグループは教室担当だった。
あわただしく机を移動している生徒達に混じって、
既に清掃を終えた数名の生徒が隅の方で会話に花を咲かせている。

玲も、その1人だった。
既に使用期間が過ぎて、置物化されている暖房に寄りかかっていた…が、
どうやら春花が廊下に一人きりになったのを見計らって
後を追ってきたようで、手に持ったチュッパチャップスの包みを開けながら
ニコニコと春花を見つめてくる。


「好きな人なんていないよ」


ぎゅっとモップを握りしめて、春花は俯いた。
ざわめく教室内とは打って変わって、しんと静まりかえる廊下に
玲の溜息が小さく響く。


「お前って嘘下手なのな。」

「う、嘘じゃないよ!好きな人なんて…いないもん」


春花の胸に自分の言葉が突き刺さる。
ずっと言い聞かせてきた言葉。
これからも言い聞かせていく言葉。
心の声なんて、随分前から耳にしていない。
半ば強制的にフタをしたまま、春花は自分に嘘を付き続けている。




「…敦史(あつし)だろ?」

「!!」


おもむろな玲の言葉に春花の肩がビクッと震える。
それを見逃してはくれない玲の視線が痛い。
名前を聞いただけで身体が硬直するくらいの自分が何とも情けなくて、
春花はやり場のない動揺を必死に隠そうとモップを握る手に力を込めた。

敦史…その名前は春花にとってタブーを意味する単語。
モップを握る掌が汗ばんでいくのが分かる。
運良く廊下には春花と玲の2人しかおらず、
教室内は雑音で溢れかえっているため、廊下での会話が聞かれる心配もないことが
春花をほんの少しだけ落ち着かせるキッカケとなった。


「何言ってんの。敦史なわけないじゃん。」


出来るだけ、平然を装って答えた。

こんな所でヘマをするほど、春花も馬鹿ではない。
伊達に嘘をつき続けているわけではないのだ。
動揺すればするだけ自分が追い込まれてしまうことを知っている。


「何で嘘つくんだよ?」

「嘘なんかついてないよ」

「辛くねーの?自分に嘘ついててさ。」

「嘘なんかじゃないってば。」

「このままずっと嘘つき続けるつもりかよ?」

「だから違うって言ってるじゃな…っ!」


そこまで言いかけて、春花は口をつぐんだ。
部活へ向かおうと教室から出てきた敦史と視線が重なったのだ。
春花の剣幕に驚いたのか、敦史が気まずそうに視線を泳がす。
最悪なタイミング。

こんなに取り乱してしまうなんて。
こんな自分の失態を、よりによって敦史に見られてしまうなんて。
会話は聞かれていなかっただろうか。
もし聞かれていたらどうしよう。
敦史だけじゃない。
教室の中のみんなに…水夏(みか)に聞かれていたら…!?


「これから部活?」


静まりかえった時間はほんの数秒だったと思う。
…が、その数秒が春花にはとてつもなく長い時間に感じられた。
沈黙を破った玲の言葉に、張りつめていた緊張感が消え、
春花はガクッとモップに寄りかかる。


「あ、うん。玲は?まだ行かねーの?」


どこか戸惑いがちに、敦史が言葉を繋いでいく。
伺うように言葉を紡ぐのは春花と玲に気を遣っているからだろうか?
そう思うと、春花は胸の痛みに押しつぶされそうになる。


「俺はまだ。秋穂(あきほ)のことでちょっとさ。…な?」

「…えっ?」


思いがけない言葉に春花は驚き、玲を見やる。
すると、まるで話を合わせろとでも言うような目つきの玲と
視線がぶつかる。
春花は敦史に気づかれぬようそっと頷いてみせた。

秋穂とは、玲の彼女の名前。
クラスの公認カップル的存在の2人のことは春花も知っている。
…が、玲自身の口から秋穂の話を聞かされたことなどなかった。
というより、玲とそれほど深い話をすること自体なかったわけで…。


「うん。そうなの。」


柔らかに笑いながら春花は玲と敦史とを交互に視界に映した。
咄嗟のこととは言え、誤魔化すことに関して自分の右に出る者はいないだろう。
それくらい、作り笑いには自信がある。
何の得にもならないそれが初めて役に立った瞬間だった。


「そっか。ま、頑張れ。」


曖昧な表情を浮かべたまま、敦史は片手を上げると
部活に行くため玄関へと向かっていった。
その後ろ姿を黙って見送る2人。


「……………」


春花はじっと去っていく敦史を見つめていた。
振り返ることのない華奢な背中をただ見つめていた。

その脳裏では、つい先ほどのやりとりを繰り返し思い出しては
壊れたフィルムのようにぐるぐると流し続けている。

驚いたような敦史の顔。
気まずそうに伺う瞳。
曖昧に笑い、手を振る仕草。
去っていく背中。

たった一言二言だけの会話だったが、
春花にとってはそれだけで胸が締め付けられるほど切なく愛しい時間であり、
無意識に胸に固く閉ざしたはずの想いに酔いしれてしまう。


「やっぱ好きなんだ?」

「!」


ふと、その視界に玲の姿が映り混んだ。
ハッとして我に返った春花をニヤニヤと玲が覗き込んでいる。


「ば…っ、まだそんなこと言ってんの?」


我を失っていたことに春花は真っ赤になりながら、
それでも必死に冷静になろうとモップを持つ手を動かす。


「だって切なそうな顔して見つめてたじゃん」

「そ、それは…っ」


そこを突かれると言い返す言葉が見つからない。
思わず敦史に見入ってしまった自分を悔やみながらも既に後の祭り。
どんな言い訳をしようと玲はしつこくつきまとってくるだろう。
かと言って認めるわけにはいかないのだ。
その理由が春花にはある。
逃げるように廊下を掃除する春花の腕を、とうとう玲が掴んだ。


「待てって!」

「ちょっ、離してよ」

「何で隠すんだよ?……水夏のこと気にしてんのか?」

「……っ」


水夏。
その言葉に春花の足はピタリと停止した。

そこまで言われればもう終わり。
玲には全てがバレている。

春花は溜息をつくと、
振り返り真っ直ぐ玲の瞳に自らの視線を重ねた。
そんな春花の心情を悟ったのか、
あれほどまで強く掴んでいた手を玲もそっと解放する。


「…何で分かったの?」

「見てりゃ気づくよ。」

「え……」


玲の言葉に春花の胸が音を立てる。
『見てれば分かる』
何気ない言葉のようで、
『この人私のこと見てたの?』という思考に結びついてしまったのだ。

…が、それも一瞬だけのこと。
何しろ玲には秋穂がいる。
自意識過剰は一番嫌いだ。
有り得ない考えは瞬時に春花の中で消去された。


「なら分かるでしょ?私が必死に隠す理由。」

「まぁ…な。」




春花は敦史に4年も片思いしていた。
敦史本人は勿論、誰に打ち明けることもせず
胸にひっそりと宿らせてきた想い。
このままでいいと言えば嘘になるかもしれない。
それでも今はまだ見つめるだけで、たまに言葉を交わせるだけで、
それだけで春花は幸せなのだった。

あの日までは…。


『あたし敦史のこと、好きになっちゃったみたい。』


突然親友の水夏に打ち明けられた想い。
一瞬にして視界が黒く染まっていくのが分かる。
所詮恋なんて言ったもん勝ちなのだ。
自分の方がずっと前から片思いしている、そんな言い訳は通用しない。

このとき、春花自身の想いも打ち明ければよかったのかもしれない。
自分も敦史が好きなのだと。
そうすれば何かが変わっていたのかもしれない。

…が、そんなのはただの理想。ただの夢物語。
現実で深く絡み合う人間関係はそんな簡単なものではない。
クラスの中心的存在の水夏に、大人しく人見知りな自分がかなうはずがない。
水夏に嫌われたくない!そう強く思ったとき春花は初めて自分に嘘をついた。


『水夏ならきっと大丈夫だよ。頑張ってね。』


その後、あっという間にクラス中に水夏の片思いが広まったときも。
女子たちにもてはやされる2人を見ているときも。
クラス委員に水夏と敦史の名前が挙がったときも。
楽しそうに委員の仕事をこなす2人を見ているときも。
春花には泣きたい想いを笑顔に変えることしか出来ずにいた。
そうすることでしか、自分を守る術を知らない。

恋より友情を取った自分。
親友のために身を引いた自分。
そう思うことで、春花は懸命に自らの想いを押し殺してきたのだ。





「なのに何で今更そんなこと私に聞いてくるのよ」


教室のベランダに椅子を並べ、春花と玲は部活をサボッてそこにいた。
この際だからと全てを話した春花に、玲は何も言わず校庭を見つめている。

玲の視線の先にはテニス部、陸上部、野球部…さまざまな部活に励む生徒の姿。
グローブを手に持ち、ボールを追いかける敦史の姿もある。
野球のユニフォームは既に泥だらけ。
額に汗を浮かべて走る敦史の姿が春花は好きだった。


「だいたいこんなとこ秋穂に見られたら誤解されちゃうよ?」


春花の視界にはテニスラケットを持って仲間と笑い合う秋穂の姿。
優しい彼女のことだから、玲と自分を目撃したら心を痛めるに違いない。


「フラれても知らないんだから」


春花の言葉に玲は返事をしようとしない。
ただ、ボーッと校庭を見つめている。
そんな玲の態度に春花は苛つきを覚えながらも
心地良い春の風に何となく身を任せていた。


「さくら」

「え?」

「満開だな」


校庭の一番隅には大きな桜並木が広がっていた。
ソメイヨシノは日本でもポピュラーな桜。
その淡いピンクの花は春の日差しを一心に受けながら、
時折風に花びらを揺らして短い命を精一杯に生きている。


「お前に似てる」


ぽつりと、玲が呟いた。
驚いて振り向いた春花とは相変わらず視線を合わせようとせず、
その黒髪はしなやかに風になびいている。
何だかその横顔がひどく印象的で、
春花は言葉を返すことも出来ずに、ただ真っ直ぐと瞳に桜を映す。

桜の色は春の色。
何だか、切なかった。


「協力するよ」

「え?」

「春花の恋。」


椅子から立ち上がり大きく伸びをした玲が、そのままの姿勢で振り向いた。
ベランダに移動してから初めて2人の視線が重なる。


「………は?」

「だから、協力するって。何度も言わせんなよ。」

「な、何言ってんの?」

「昔秋穂と俺を取り持ってくれたろ?そのお礼」

「はぁ?だってそれは水夏がっ」

「いーんだよ!もう決めたんだからさ。」

「だって……」


玲は水夏と仲がよかった。
これまでも熱心に玲が水夏の相談を受けていたことを春花は知っている。
確かに過去玲と秋穂の仲を取り持ったこともあったが、
それは主に水夏がしたことで、自分は側にいただけだ。
第一そんなの何年も前のことなのに何故今更…?


「頑張れよ、春花」







このときの玲の心情は、今でも春花には分からない。
ただの気まぐれなのか、何か考えがあってのことだったのか。
ただ、この一件がキッカケで春花と玲の距離が近づいたのは事実で。
2人のはじまりはこの日だったのだと春花は今でも思っている。

だからだろうか?

春花は今でも、桜を見るたびに玲のことを思い出す…。





 to be continued。。。