彼岸花が揺れる
第3話 But I Love You
「今日は、本当にありがとう。」
とうとうココアの缶から何の温かみも感じなくなったころ。
それまで俯いたまま押し黙っていた斉木さんは突然立ち上がり、
あたしに微笑んでみせた。
「仕事以外でこうして誰かと話すの久しぶりだったから、
何だか新鮮だったよ。」
そう言って、長椅子脇のゴミ箱に空き缶を放り投げる。
長細い筒の中にカラカラと無機質な音が響き、
静かな廊下に浸透していくそれが告げるのはタイムリミット。
「お仕事以外の時間は、ずっとここにいるんですか?」
「あぁ、うん。他で何をしてても、やっぱり気がかりでね。」
馬鹿みたいだけど、彩音の隣が一番落ち着くんだ。
どこか遠くを見つめたような表情で、斉木さんはそう言葉を続けた。
きっと、その瞳には微笑む彩音さんが映っているんだろう。
彼の目一杯の愛情を受けて、幸せに満ちた彼女が…。
「じゃぁ…ここに来れば斉木さんに会えるんですね?」
「………え?」
こういう瞬間は、すき。
彩音さんを見つめる瞳が、この一瞬だけはあたしを映してくれる。
あたしを見てくれる。
あたしの言葉だけ…考えているはずだから。
「あ、別に変な意味じゃないんです。
あたしも…何をしてても落ち着かないから。」
「あ…あ、そうだよな。君も、彩音のこと心配してくれているんだね。」
どこかホッとしたように固まっていた表情が緩む。
少しだけ早口になった唇。
それと同時に首もとのグリーンに伸びる大きな手。
この人は慌てた時にネクタイを緩めるのが癖なのかもしれない。
そして。
あたしは見逃さなかった。
ネクタイを緩めながら、小声で
何考えてんだ俺、そう彼が口にするのを。
「彩音さんの目が覚めるの、あたしも一緒に待っていいですか?」
「いいけど…。
…………いつになるか分からないんだよ?」
自分で言っておきながら、その言葉に胸を痛める。
そんな不器用なあなたを1人にしておきたくないと、思った。
今日最初に病室へ訪れた際に見た、
小さくなった頼りない背中を放っておきたくないと、思った。
あなたの側にいたいと、強く思う。
「いいんです。それに、話し相手がいた方が気も紛れると思いますよ。
このままじゃ、斉木さん倒れちゃいます。」
「高瀬さん…」
「あ、こんなことあたしが言ったら不謹慎ですよね。…すみません。」
「いや、いいんだ。…ありがとう。」
今だけでいい。
その笑顔を独り占めさせて欲しい。
心の中にまで手を出そうとは思わない。
だから…
だから…
「彩音さんの目が覚めたら、謝らなきゃ。」
あなたの一番大事な人を、今だけあたしに貸してください。
「きっと彩音も許してくれると思うよ。」
「斉木さん…ありがとうございます。」
あの事故のとき。
力無く横たわる彼女に駆け寄る横顔に。
大事そうに、愛おしそうに彼女を抱きかかえるその姿に。
降り注ぐ雨からかばって、スーツの上着を細い身体にかける優しさに。
今にも泣き出しそうなほど悲しみと心配に溢れた表情に。
彼女の名を呼ぶ声に。
すべてに。
あなたに。
あたしは目が離せなくなった。
救急車に乗って姿を消したあなたのことが
いつまでも頭から離れなかった。
不謹慎なのは分かっている。
最低なのも分かっている。
それでも、あたしは彼女への罪悪感より
強い嫉妬を覚えてしまっている。
彼への愛情を、覚えてしまった。
ふたりの関係を壊そうとまでは思わない。
ただ、側にいれるだけでいい。
そんな辛そうな顔をしないで欲しい。
1人で何もかもを背負い込んだりしないで欲しい。
もっと笑って欲しい。
もっと頼って欲しい。
もっとあたしを見て欲しい。
彼女でなく、あたしの名前を呼んで欲しい。
今だけでいいから…。
だから…
「また、来てもいいですか?」
「いいけど…高瀬さんも今色々大変なんじゃない?」
それは事実。
保険のことなどで、
あたしは今もワゴン運転手との話し合いが続いている。
人身事故を起こしてしまったために、
内定していた就職先も白紙に戻ってしまった。
彩音さんの家族への謝罪や保障。
いくら成人しているからと言ってもしょせんは学生の身。
自分1人では何の責任もとれないあたしの代わりに
色んなことに追われて、
尻ぬぐいをさせられている両親は疲れ切っていた。
「両親にとっても、学校にとっても、
今のあたしはお荷物でしかないから。」
おまえのせいだ…
昨日父から言われた言葉。
否定する権利なんてない。
もう、あの家にあたしの居場所は欠片も存在しない。
「ここだけなんです。
…ただ、1つのことだけを考えていられる場所は。」
あなたの隣だけ。
「1つのこと?」
「…はい。」
あなたのことだけ。
「…そっか。ありがとう。」
「え?」
「彩音のことをそんなに考えてくれて。」
「………。」
神様、あたしは最低な女です。
危うく1つの命を奪いそうになっておきながら、
その瞬間、恋に落ちてしまいました。
学校をやめたっていい。
家を追い出されたっていい。
地獄に落ちたって構わない。
何もいらないから。
今だけでいいんです。
この人の、側にいたいんです…。
「また、明日来ます。」
「明日?別に毎日通う必要はないんだよ?」
「いえ。…また明日、会いに来ます。」
あなたに。
「そっか。ありがとう。彩音もきっと喜ぶよ。」
送るよという申し出を断わると、
あたしはそのままあなたに背を向けた。
3pの低いヒールが床を弾くたびに広がるあなたとの距離。
背中に感じるあなたの足音が遠ざかっていく。
立ち止まり、振り返ると
細身のスーツが病室に消える瞬間だった。
面会時間が終わるまで、あと数時間。
あなたは彼女の寝顔を見つめ続けるのだろうか。
小さな手を握り、彼女の髪を撫でるのだろうか。
そう思うと、強く胸が締め付けられる。
けれど、これは偶然の出会い。
この事故によって、あたしの歯車は大きく狂いだそうとしている。
つい4日前まで当たり前だった家も、学校も、就職先も。
あの一瞬によって壊れてしまった。
残ったのは、ただ1つの出会い。
あなたと出会うために起こった出来事ならば
あたしは何にでも耐えていける。
斉木さんが 好きです。
to be continued。。。