彼岸花が揺れる
第2話 いくつもの偶然
その日は朝から強い雨が降っていた。
家もビルも、街も、何もかもが濡れ、
交差点を忙しなく行く人々の頭上をカラフルな傘が飾っている。
あたしはいつものように専門学校へ通うため
黒いドアを閉め、ロックを確認した後ハンドルを握る。
この日。
いつもの日常のなかで、只ひとつだけ違っていたのは。
雨によってもたらされた湿気のせいで
頑固な癖毛の処理に手間取ってしまったこと。
結果として出発予定時刻を多少オーバーしてしまった。
ほんの、数分…。
「よく見えないなぁ…」
最近洗車をサボッていたせいか、
ワイパーがどんなに掻き分けても
まとわりつくような雫は一向に視界をクリアにしてはくれない。
それどころか頼りのエアコンでさえも
目の前を白く塗り上げる窓の曇りを消し去るには
力不足以外の何者でもなかった。
雨の日は道路が混むから嫌い。
特にこの辺りには中学・高校が多いため
いつもは自転車通学の生徒たちがこぞって親たちに救いを求める。
結果、学校付近の道路は大渋滞。
今も、道路脇に停車したワゴンから降りる
セーラー服の少女が赤い傘の隙間にちらついている。
フロントガラスから視線をオーディオ上に設置された時計に移す。
時刻は午前8時25分。
あと30分もしないうちに始業のベルが鳴る。
「ヤバい…遅刻」
イラつく気持ちを抑えようとCDの音量を上げる。
お気に入りの歌声が車内に響くけれど、
ハンドルを叩く指先は一向に落ち着きを取り戻してはくれなくて。
「あーもうっ」
狭い道のため、このワゴンを抜くには
どうしても反対車線にはみ出さなければならない。
対向車の存在を確かめようと窓を開け、顔を乗り出したところで
しょせん軽自動車。ワゴンの影になっては見えるものも見えない。
アスファルトが受け止めきれずにいる雨水で
この先延々と繋がるこの1本の道からは
まるでグレーの絵の具がグズグスと溶け出しているようだ。
目の前では未だもたつく女子生徒。
このとき、あたしのイラつく気持ちがもう少し静まっていたなら。
もう少し早くワゴンが発進していたなら。
せめて、雨が降っていなかったなら。
後になって思うことは掌から零れそうなほど。
けれど、
そのときのあたしに残されていた、
少なくとも残っていると思っていたコマは
たった1つしか、なかった。
ブレーキに置かれていた右足を移動し、一気に踏み込む。
急発進の衝撃と共にシートベルトが肩に食い込んだ。
そこで起きた小さな予想外。
あたしがアクセルを踏んだのとほぼ同時に
まったくと言っていいほど発車の意思がないように思えたワゴンが
ゆっくりと地面を転がり出したのだ。
運転手は自らの後方に出来てしまった渋滞に慌てていたのだろう。
このとき、ワゴンのウィンカーは点滅しなかった。
「うそっ!?」
ぶつかるっ!!
そう思ったとき、
あたしの身体で唯一反応したのは右足ではなく両手。
危ナイ時ハ、マズ停車。
教習所時代に習ったフレーズが一瞬だけ脳裏をかすめたけれど
そんなのは後の祭にすぎなくて。
「危ないっ!!、彩音…っ」
咄嗟にハンドルをきるあたしの耳に小さく聞こえたのが
貴方の声だったと知ったのは、もう少し先のこと。
―――――――――ッ…!!!
大きく車線を逸れたあたしの車は鈍い音を響かせた後、
そのまま仰け反るように急停車した。
そのとき感じた、とても大きな衝撃と違和感。
あたしの車に駆け寄る真っ青な横顔。
「ひっ…!!」
ドアを開けた瞬間飛び込んできたのは
車道にぐったりと横たわる、女性の姿だった。
あれから3日。
それは彼女が眠りの世界に旅立ってからの時間。
そして
あたしと彼、斉木遥大(さいき はると)が出会ってからの時間でもある。
「あれは高瀬さんだけの責任じゃないよ。」
慰めの言葉を口にしながら
斉木さんは勢いよくコーヒーを飲み干した。
ここに来てどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
時計を持たないあたしにそれは分からないけれど、
手に持ったココアの温かみはほとんど姿を消しつつある。
「ワゴン車がウィンカーを出し忘れたのは運転手も認めていたし、
何よりあそこは駐停車禁止の場所だったからね。」
あの後すぐ救急車と共に駆けつけた警察によって
彼女と、病院に付き添った斉木さん以外の当事者、
つまりあたしとワゴン車の運転手は事情聴取を受けた。
それによって明かされた、あの道路が駐停車禁止区域だったことと
運転手がウィンカーを出さずに発進したことを認めたこともあり
あたしの責任は従来より大分軽減されたそう。
もちろん理由は何であれ、人身事故を起こしてしまったあたしは
責任だの保険だの、それどころではなくて。
ショックでそのまま寝込んで丸々2日。
ようやく落ち着きを取り戻したところで
こうして病院に訪れたというわけだ。
「でも、やっぱりあたしのせいです。本当…ごめんなさい。」
「高瀬さん、そんなに自分を責めなくてもいいから。」
「だって。あの時あたしがちゃんとワゴンが出るのを待ってたら…」
「もうやめよう?こんなことしたって君も俺も辛いだけだ。」
「斉木さん…」
辛いという言葉がそのまま当てはまるような表情で
彼は静かに俯いた。
その手は空になったコーヒーの缶を強く握りしめている。
こんなとき、あたしには何が出来るのだろうかと。
謝ることしか彼の力になれないのかと。
胸の中を苦い気持ちが通り過ぎていく。
「それに…、あの時飛び出したのは彩音の方だったんだから。」
彩音。
それが彼女の名前だ。
あたしが初めて彼女の名前を目にしたのは
病院のベッドに貼られたネームプレートだった。
そこで初めて
事故の直前に聞こえた声が彼のものだったのだと気づく。
そう。
あの時、強風に持ち去られた自分の傘を追って
車道に飛び出したのは彩音さんの方だった。
「早く、謝りたいです。彩音さん本人に。」
この気持ちは決して嘘じゃない。
あたしは自分のしたことを彼女に謝りたい。
怒られても、罵られても、いっそ殴られたっていい。
彩音さんの声で、表情で、体温で。
どれだけ責められても構わない。
きっとあたしはそこで初めて実感するのだろう。
自分の罪の重さと、彼女が生きているという証を。
そして、分かっている。
彼女が眠りから覚めるとき。
それが一番の薬なのだ。
こんなにも、悲痛な瞳でいる貴方への。
柔らかな瞼がゆっくりと持ち上がったなら、
きっと貴方にも笑顔が戻る。
そう分かっているから…。
「俺も、早く彼女の声が聴きたいよ。」
「…。」
缶を握る左手の薬指。
そこに光るシンプルなリング。
彼女の正確な名前は斉木彩音。
彼の、妻だ。
to be continued。。。
2005/10/27