たった6畳程度の狭い室内に鈍い音が響き渡る。
それと同時に頬に感じる痛み。
真っ白な床に散らばった赤が、無性に目に焼き付いて離れない。

顔を上げると、長く伸ばしていた前髪の向こうで
肩を上下させる怒りを含んだ瞳と視線が交差する。

そのとき感じたものは

罪悪感でも、悲しみでも、ない。

ただ、沸き上がる強い嫉妬心と狂わしいほどの愛情。
それだけ。

何のこともない。

ただ、地面に力無く倒れる彼女よりも、
真っ青な顔をして細い身体に駆け寄る横顔に目が行ってしまっただけ。
後悔とか恐怖とか、きっとその場に相応しいであろうものよりも
強く引きつけられる何かを先に感じてしまっただけ。

それは
彼と過ごした少ない時間のなかで
たった2回のうちの、1回目の平手だった。




彼岸花れる

第1話 白に散る赤



「一体君は何を考えているんだ。」


静かに、だけれど語尾に秘められた強い怒りを感じるには十分な声色で。
彼は床に座り込んだままのあたしを見据えた。
丁度目の高さにある、その大きな拳は
まるで何かを背負い込むように震えている。


「こんなものを持ってくるなんて、非常識だろう。」


薄い唇の言うこんなものとは、
殴られた際にあたしの手から滑り落ちた花のこと。

葉をつけず真っ直ぐと伸びた茎の上で華麗に咲き誇る赤。
確かにこの花に付けられた名前は、
気品を滲ませた鮮やかな色合いとは裏腹にひどく無粋なものだ。


「見舞いに死人花なんて…君はどうかしてるよ。」


そう。

今日あたしはこの場所に見舞いという形で訪れていた。



部屋の奥に置かれたベッドには
窓から降り注ぐ光を全身に浴びて眠る女性の姿。
綺麗な肌の上に影を作る長い睫毛。


その奥にあるはずの大きな瞳を

あたしは未だに見てはいない。






「そんなこと言うものじゃありませんよ。」


重苦しい沈黙を裂くように、ふいに注がれた声に振り向くと。
パンプス特有の床を弾く音が近づいたかと思えば
少々年齢を重ねすぎた天使が、白衣姿で傍らに舞い降りた。


「彼岸花は、ただ単にお彼岸の時期に咲くことから
 付けられた名前なんですから。」


紺色のカーディガンから覗く腕が
散らばった赤を数本拾い上げ、微笑みかける。


「で、でも婦長」

「立てますか?」


そして彼の言葉を遮り、あたしに手を差し出す。

あからさまな態度に小さく舌打ちをした横顔とは対照的に
まるで安心してとでも訴えかけるような表情が
目尻の皺をより深く刻んでいる。

婦長と呼ばれたこの女性は看護士で。
あたし達がこの病院に訪れた時から
何かと世話を焼いてくれる親切なひと。

小さなその手で一体どれほどの命を救ってきたのだろう。
またどれほどの命を見送ってきたのだろう。
そっと右手を重ねると、温かな体温があたしを包んだ。


「あらあら。服が汚れちゃったわね。」

「あ、気にしないでください。安物ですから。」

「そう?本当に大丈夫?」

「…はい。」


俯き視線を逸らすことしか出来ずにいるあたしの
左頬の腫れに気づいているのかいないのか。
ワインレッドのルージュを薄くひいた唇が
そういえば、と言葉を続ける。


「これには曼珠沙華っていう別名もあるんですよ。」

「まんじゅしゃげ…ですか?」


聞き覚えがあるような、ないような。
婦長さんの口にした妙に耳障りの良い単語に
どうやら彼は興味を持ったらしい。

男性特有の長い指を顎あたりに添えながら
ベッド脇に置かれたパイプ椅子を婦長に勧める柔らかな笑顔は
つい数分ほど前とはまるで別人だ。


「えぇ。”天上の花”という意味でね。
 おめでたい事が起こる兆しに、
 赤い花が天から降ってくるという言い伝えから来ているらしいわ。」

「へぇ…知らなかったな。」


病室に来る際に持ち寄ったらしい花瓶に花をいけながら
婦長さんは窓に映るあたし達に視線を合わせ微笑む。

室内に降り注ぐ光はいつの間にかオレンジ色へと変化していて
二人のやりとりを見ている限り、
どうやら急上昇した彼の怒りも落ち着いたようだった。


「彼岸花の球根は炎症や腫れ物に効くとされていてね、
 漢方薬としても用いられていたそうよ。
 偏に不吉だと言い切るのはよくないんじゃないかしら。」

「そう…ですね。すみません。」

「あ、いやだわ。私ったらこれじゃお説教みたい。
 ごめんなさいね、忘れてください。」


ふふふ、と婦長さんは柔らかに笑い振り返る。
白髪を綺麗に染めたブラウンの髪が
風に乗って耳元で揺れていた。


「それに、とっても綺麗な色よね。
 私は好きですよ、彼岸花。」


白衣の天使の助言が
うまい具合に話を収めてくれたところで。
あたしたちはようやく彼女の訪問の意味を知ることになる。
それじゃぁ、彼女を着替えさせたいので。
と婦長さんの言葉は続き、
必然的にあたしたちは病室を後にすることとなってしまった。

とは言っても他に行く当てもなく、けれど帰るに帰れず
あたしは数歩前を行く彼の後ろを仕方なくついて行く

…振りをしていた。



やがて行き着いた喫煙所。
長椅子に腰掛けた彼の横に多少の距離を空けて並ぶ。

間髪空けずに煙草を取り出した横顔とは違い
手持ち無沙汰なあたしは足を組んだり組み替えたりしてみるけれど。
古びた椅子はそのたびにギシギシと音を立てて。
1階の外来とは違って静まりかえった見舞客用の2階に
その音は不釣り合いすぎる。

仕方なく足を揃えて床に並べた。
視界に申し訳なさそうに映る少しだけ履き古したスニーカー。
けれどそれだけではどうにも落ち着かなくて
羽織っていたパーカーの両袖を引っ張り上げて掌を覆いこむ。



「…さっきはごめん。」

「えっ?」


突然訪れた沈黙の終わりに驚く。
見ると、気まずそうに視線を灰皿に落としたままの彼が
吐き出した煙に乗せてポツポツと言葉を零し始めたところだった。


「その…殴ったりして。」

「あ、いえ。」

「痛む?」

「大丈夫です。」


左隣に座ったあたしの左頬は、彼からよく見えるだろう。
わりと色白な肌に映える赤い腫れは
まるで床に散った彼岸花のよう。

その証拠に一瞬だけこちらに視線を向けた彼が
すぐさま俯いたのを見逃さなかったあたしは計算高い女だろうか。


「あたしこそ、無神経でしたよね。」

「え?」

「怒って当然です。お見舞いなのに、…彼岸花だなんて。」

「いや、いいんだ。俺こそ勝手に死人花なんて決めつけて。
 婦長の話を聞いて無知な自分が恥ずかしくなったよ。」

「そんなことないです。あたしのほうこそ」

「違うよ、俺が…」

「………………」

「……似たもの同士だな、俺たち。」



出会ってそこで初めて見る、笑顔。

切れ長の目が緩むと描く、少し目尻の下がったライン。
それだけで胸の奥から溢れそうになる何かを
あたしは奥歯で噛み潰す。

どこか安心したように肩の力が抜けた彼は
そのまま煙草を灰皿に押しつけると
おもむろに立ち上がり、あたしを振り返った。


「何がいい?」

「はい?」

「奢るよ。好きなの言って。」


ポケットから取り出したコインが吸い込まれた先は自販機。
冬に向けてホットドリンクが仲間入りしたそれは
煙草の販売機に混じって長椅子のすぐ横に設置されていた。
入院客や見舞客がこぞって利用していくのだろう。
売り切れの赤いランプが所々点灯している。


「や、いいですよ。」

「遠慮しなくていいって。殴っちゃったお詫び。」

「……………」

「…にしちゃぁ、安すぎる?」

「…じゃぁお願いします。」



手渡されたホットココアに口を付けずにいるあたしを不思議がる
ブラックコーヒー片手の彼。
猫舌なんです、なんて言うのは勿論建前で。
きっとこのココアのプルトップに手をかけるのは随分と先だろう。
少なくとも、この缶が温かいうちはこの場所に居られるのだから。



「そういえば、まだちゃんとお詫びしてませんでしたよね。」

「お詫び?」

「はい。あのときの…。」

「………………」




あのとき…今日から数えてちょうど3つ前の夜。


強い雫が地面を叩く、そんな日だった。






 to be continued。。。