100枚目のラブレター
〜 大きくなった背中 〜
3月も半ばになると、昼間は本当に春めいてくる。
窓から降り注ぐ柔らかな光は暖かくて、
見上げた空も、何だか優しい色をしていた。
特別待ち望んでいたわけでもないのに、
何だかワクワクしてしまう、それが春の訪れなのかな。
私はこの季節が一番好きかもしれない。
今朝、私の元に97通目の手紙が届いた。
『もう春ですね。
僕の好きな季節です。
それは、何だか君に似ているから。
僕にとって、君は春です。』
この手紙を読んで、果楓はポエマーだと言って笑っていた。
確かにちょっと直視するには恥ずかしい文面。
けど、私は素直に嬉しかった。
自分と、自分の好きな季節が似ている。
考えてもみなかった言葉は、予想外に私の心を躍らせた。
中庭の桜は、また少しツボミが大きくなったみたいだ。
心なしか、枝の先が薄いピンクに染まり始めた気がする。
窓枠に頬杖をついて、見下ろした桜。
4月の頭には満開になるそれを、ここから見るのが私は好き。
桜を真上から見下ろす機会なんて、あんまりないじゃない?
確か去年そんなことを言って、渉に笑われた気がする。
また、春が来る。
私たちが出会った季節。
私が渉に恋をした季節。
そして
私たちが、離れた季節。
でも、私は春が好き。
何故かは分からないけど嬉しくて。
だけど切なくなる。
そんな春が好き。
もしかしたら、私にとっての春は渉なのかもしれないね。
「咲月さん…!」
手に持っていた封筒をポケットに閉まった時だった。
背後から突然名前を呼ばれて、振り向いた先に重なる視線。
急いで走ってきたのだろうか。
慌てたように上下する肩の動きが大きい。
黒髪をツンツン立てた髪型と、茶色いフチのファッションメガネ。
私を引き留めた、その顔には見覚えがある。
「ええっと、管沢くん…?」
管沢(かんざわ)くんは私のクラスメイトだ。
勿論名前だって顔だってキチンと覚えている。
思わず語尾が弱くなってしまったのは、
彼とまともに口を利くのは今日が初めてだったから。
まさか呼び止められるとは思わなくて、意外な相手に困惑する。
「そんなに慌てて、どうしたの?」
「手紙…見た?」
「えっ?」
手紙。
その言葉に思わず教科書を落としそうになって、慌てて持ち直す。
だって他に思い当たることなんてない。
確かめるように、ポケットの上から今朝届いた存在を握りしめた。
「手紙って…今朝の?」
「そう。下駄箱に入れておいたんだけど…良かった。見てくれたんだ。」
私の言葉に、管沢くんはホッとしたように溜息をついた。
それとは逆に、彼の言葉を受けた私の頭はぐるぐると回り出す。
え?…え?
ちょっと待って。下駄箱って…本当に?
この手紙を管沢くんが?
ずっと?ずっと…………?
果楓が面白半分に言っていたあの日の言葉が、
動揺する私の中で、やけにリアルに浮かび上がってくる。
――でもひょっとしてそれは百と同じクラスであることを隠すための
カモフラージュだったりして!――――――
「とりあえず、考えといてくれるかな?また返事聞きにくるから!」
何も言えず、立ちつくすばかりの私に彼は笑顔を向けると
軽い足取りで教室へと引き返していった。
ずっと、知りたかった。
この手紙を送り続けている人のこと。
一体誰なんだろう?
どんな気持ちでこれを書いているんだろう?
返事がないことをどう思ってるんだろう?
私のこと、好きなのかな…?
手紙には、一度だって私が好きとか、付き合って欲しいとか
そういう直接的な言葉が書かれたことはなかった。
だから私はどこかで安心していたんだと思う。
まるで空想の物語みたいに、この手紙を考えていたんだと思う。
けれど
実際に管沢くんが現れて、私に返事が欲しいと言った。
それは夢物語の終わりを意味する。
顔も知らなかった送り主は管沢くんというリアルな人物になって。
ポケットに眠る小さな紙切れは、一気に恋愛という現実に姿を変えた。
返事…それは答えを出すこと。
1年続いたこの手紙に私の答えを出すこと。
私の答え…それは何だろう?
私、管沢くんと付き合うの?
そんな簡単なことさえ、私は今まで考えたこともなかった。
この手紙にはちゃんとそれを書いている送り主がいるのに。
今までバーチャルな意味で手紙を捉えていたと思う。
勝手にどこからか私の元へ送られてきているような。
退屈な日常に届けられる小さな変化。小さな期待。
返事を求めない文面をいいことに、私は勝手にこのままでいいと解釈して。
返事を出そうなんて、…思ったこともない。
「咲月?」
「ひゃっ!」
「う、わっ!?」
今度こそ手から滑り落ちた教科書たちが
一斉に足下へと散らばり落ちた。
厄介なことに、その中には分厚い辞書も含まれていて。
一直線に落ちた先にあったのは、なんと私の爪先。
鈍い音と衝撃と、強烈な痛みが走って、思わず私はうずくまる。
「痛った〜〜っ」
「わ、悪りぃ!まさかそんな驚くとは思わなくって。
おい、平気か?」
「平気じゃないよっ。ばかぁー。」
「ばっ、バカっつーなよ!お前がボーッと突っ立ってるから。」
声をかけてきたのは、渉だった。
痛む爪先を押さえながら、
なんてタイミングなんだろうと泣きたくなってしまう。
今だけは会いたくなかった。
今すぐ会いたかった。
相対する2つの気持ちはどちらも本当で。
自分自身ですら収拾がつかないまま、勝手に心を染めていく。
「何これ…手紙?」
「えっ」
教科書を拾ってくれていた渉の手が、疑問の声と共に停止する。
その長い綺麗な指に握られていたのは
真っ白な封筒。
「え?えっ!?」
慌ててポケットの中に手を突っ込む。
…けれど、あるはずのモノがないそこには
リップクリームが転がっているだけ。
胸ポケットに入れていたのがマズかった。
どうやらしゃがみ込んだ時に、抜け落ちてしまっていたらしい。
「か、返してっ」
「何これ?ひょっとしてラブレターとか?」
ここで、いつもみたいに怒れば良かったのだ。
「何言ってんの」とか「バカじゃない」とか、何でもいい。
とにかく何か言葉を投げなければいけなかった。
無言で俯いたりなんかしちゃ、いけなかったのに。
「………」
「え…マジで?」
どうしても、言葉が出てこなかった。
何だか色んなことがありすぎて、
私の心がついていけなかったんだと思う。
渉にだけは知られたくなかった。
けれど、本当は渉に助けを求めていた。
「同じクラスの、管沢くんに…貰ったの。」
何だか色んなことで精一杯な私は
それだけ口にするのがやっとで。
窓の外から降り注ぐ光に照らされて、
茶色い渉の髪は、更に明るく輝いている。
そういえば、渉は入学した時から髪を染めていた。
その髪と左耳に開いた大きなピアスが印象的で、
第一印象は実はあんまり良くないことを頭の隅で思い出す。
「お前さー、約束覚えてないの?」
「…えっ?」
「管沢ね…。別にいんじゃね?」
「ちょっ…吉森!?」
耳に届いたのは
聞き慣れた、けれどとても低い、強い声。
揃えた教科書を床に置くと、そのまま渉は私に背を向けた。
冷たい言葉と、やけに悲しい瞳。それに約束の言葉を残して。
どんなにバカにしても、
どんなに冷たくしても、
いつも笑っている渉。
こっちの態度なんか全然気にしていないような顔をして
余裕の笑みで私の嫌味なんか吹き飛ばしちゃう。それが渉。
そんな渉が怒ってる…?
約束。
「覚えてるよ…ばか」
廊下に響く渉の足音はとてもゆっくりで。
追いかければ、きっと追いつくことが出来たと思う。
けれど、何故か私の足はまるで根でも生えたみたいに動くことが出来なくて。
改めて見る渉の背中は、何だかとても「男の子」をしていた。
この前思ったことはやっぱり間違ってはいなかったらしい。
昔より随分と背が伸びているのが分かる。
170以上はあるんじゃないのかな。
ついこの間まで、165くらいしかなかったのに。
大きな大きな渉の背中は少しずつ遠くなっていった。
それが今の私には、心の距離に思えてならなかった。
to be continued。。。